11/15から公開となったオリジナル劇場アニメーション『楽園追放』、事前にノベライズ版を読んだ状態で11/16に観てまいりました。語りたいことは多々あるが、とりあえずちゃんとパンフレットを読む前に言語化できそうなところを。
※ここから先にネタバレを含みますので、本作をまだ観ていないという方は是非観てから。ノベライズ版であっても読んでから。おそらく初回のインプットは自分でやらないと魅力が落ちていしまうと思いますので。
ストーリーが終盤に行くにつれてアンジェラが幼く感じるようになるというのは、彼女のパーソナリティがマテリアルボディから影響を受けたと考えても良いかもしれない、そんな事を思う。その事を映像で説得力を持って示しているのが、一旦任務完了ということで報告のためにディーバに再アクセスしている際の彼女の電脳パーソナリティの姿である。冒頭とは異なり、この時の彼女はマテリアルボディと同じ姿をしている。これは精神が身体の影響を受けたと考えることができそうである。それは精神と身体が一致することの重要性を序盤で語っている点にある。マテリアルボディと電脳パーソナリティが一致することで精神を保ち、かつ身体を動かせるのであると。ここでふと思いつくのが、仮にボディの培養時間を短縮せずに本来のパーソナリティの姿であったのなら、フロンティアセッターを一知性体と認めただろうか。この段階では掘り下げとしては浅いと思うものの。
▼フロンティアセッターの演説
フロンティアセッターが外宇宙へ乗り出す計画に関して朗々と語っていると場面、説明を捕捉するための映像はなく、語るフロンティアセッターとそれを懐疑的に見ているアンジェラとディンゴにカメラを回している。本来であれば回想やイメージを見せることで映像的に説明し、説得力を持たせるところであると思う。しかしながら映像的説明を行わない理由は、ここで重要なのは外宇宙への計画そのものではないということだろうか。AIが自我を獲得したか否か、それこそが重要なポイントかと思う。そのためにはアンジェラとディンゴがフロンティアセッターに"自我がある"と納得するまでの過程に説得力を持たせる必要がある。そこでSF的な舞台装置を説明するよりも、フロンティアセッターという人格を描くため映像作りを優先したと考えることもできる。実際、計画の説明よりも三人の間の何気ないやり取りに重点をおいて尺を取り、演出されていると感じた。
▼海への憧れ
ノベライズ版では幼少期におけるアンジェラとクリスティン(黄緑ショートの林原ボイスの捜査官)のエピソードを冒頭にい入れることにより、最終局での戦闘シーンに文章よる説得力を持たせるドラマを作り出すための布石としている。また二人の対比により、楽園追放という仕掛けへの思考と回答としているところもある。その一方で、ノベライズ版においては本編の最初、原作たる映画では冒頭の何気ないアンジェラの"好きだからここにいる"という一言を、海への憧れとしてノベライズ版では扱い、ここに一人の人間としてのアンジェラを見いだしていると考えてみた。それはフロンティアセッターの誘いに対する"まだこの世界をろくに知らない"という回答へと繋がる。自分の中にある海への憧れは、フロンティアセッターが抱いている計画遂行への想いと同じものであると。だからこそ彼女は申し出を断る。それはフロンティアセッターが自分と同じものであるからこその最上級の敬意として。もっとも映画では海といより湖という描写にも見えるが、遥か上空からの眺めでもある上、そもそも明示できる海というものより、"うみのような"曖昧な何かに惹かれている想いのトリガーとしての演出と見ても良いかもしれない。そしてあやふやなものへの想いで動くことができる、それはきっと人間なのだと。
またアンジェラの海への憧れは電脳パーソナリティである彼女が人間か、はたまたただのプログラムであるのかという問への一つの回答である。それはフロンティアセッターがARISE
の曲が好きだといったのと同じこと。そしてディンゴがARISEが好きであるのと同じことでもある。だからこそ、あの三人は"仁義"で繋がるのである。そんなことをつらつらと考えたりしたわけです。
現状ではこんな感じ。さらに情報を入れたり反芻したりして変容してゆくだろうと思いますが。映像面はまた色々あるから書きたいと思うけど、このブログで話題が続くことはあるのか否か。とりあえず3DCGであることは明確に知覚できるものの、それが気になるところにはないという感。それより画面の構成と作り込み、空間の見せ方、映像に持たせた説得力に圧倒されましたねぇ。
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